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引退

 71代スナイプリーダーを務めましたセブンです。

 他の71代引退ブログは投稿され終わり、今週より新しい世代のブログが投稿されている中、最後の71代引退ブログを投稿させて頂きます。実はこのブログ、先週の金曜日にあげる予定でありました。しかし、中イン終わっての燃え尽き症候群なのか、はたまた自分の遅筆のせいなのか、全然筆が乗りませんでした。

 どう書くか色々考えました。題材は4年分です。書きたい事は幾多あります。自分の周りの人との思い出を中心に書くか、自分の思い出をつらつらと書くか、それぞれ書いてみたりもしました。ただそういったのは引退ブログという自分のヨット部の軌跡を残す場としては何だか不適当な気がしました。その中でしっくりきた、僕がどうヨットに向き合ってきたのか、どういうモチベーションの変遷があったのか、について書いていこうと思います。少し長いですがお付き合いください。

 


 1回生の最後の3月ごろよりコロナウイルスの流行が岡山大学でも確認されました。そんな時世の中で、3回生になり自分がレースメンバーになるまで大会というものにはほとんど出たことがありませんでした。よく「大会に出るとモチベがあがる」と70代や69代の人に言われていましたが、如何せん大会に出ることはなく、長いことモチベーションは低い状態にありました。当時の僕は部活をある種仕事の様に捉えていたと思います。部活はタスク、言われた通りにタスクを処理する。そういった風に部活に参加していました。

 レースメンバーになって幾何かモチベーションは高くなりました。スキッパーのドレスさんの帆走力により成績が良かったからです。ドレスさんあざす。ただ成績が良かった故に胡坐をかいていました。ヨットへのモチベーションが上がっても、ヨットへの向き合い方は以前と同じまま、タスクをこなす日々でした。

 そういった向き合い方が変わったのは去年の中国インカレと全日本スナイプです。

 中国インカレでの自分はてんでダメでした。度重なるコースミス。生まれる自身への疑念。判断ミス。悪い事に悪い事を重ねていました。明らかに自分がチームの足を引っ張っているという事実に、さらに自分を卑下しました。自分はその悪循環から抜け出すことが中国インカレ中は出来ませんでした。結果はご存じの通り、負けました。

 僕はあの時のチームであれば、中国インカレなんて余裕で突破出来ると思っていました。しかし、結果はそうではありませんでした。他のチームメンバーは強かったです。ただ自分の能力不足とそれに胡坐をかいた結果がこんなところで出てしまった、チームメンバーに申し訳なかったです。

 大会後、自分は同じ失敗を繰り返さない為に強くならなければならないというある種の使命感に駆られるようになりました。ヨットへの向き合い方も変わり、沢山ヨットに乗る時間を作ろうと思い、がむしゃらに自主練に行っていました。本当にがむしゃらでした。当時の僕は知識も技術も不十分で良いも悪いもよく分からないまま乗っていたように思います。ただやる気だけはありました。

 しかし、そんな中国インカレ以上に全日本スナイプは、僕にとって大きな転換となりました。否、むしろ中国インカレでそういった下地が出来ていたからこそ、全日本スナイプが僕に与えた衝撃はすさまじかったです。70代が完全に引退した11月より1カ月間。12月の全日本スナイプに向けて、ハーバーでずっと整備やら自主練やらしていました。これは中国インカレのある種リベンジの様な、クルーとして最後を華々しく飾りたいだとか、スキッパーであるフレンチさんに最後にいい思い出を作って欲しいだとか、そんなモチベーションで活動していました。そんな準備万端で臨んだ全日本スナイプは、ボロボロでした。あわよくば、一瞬でも前を走れるタイミングがあるのではないかとずっと思っていましたが、そんな甘えも掻き消えるほど、全く歯が立ちませんでした。自分は弱い、そんな事実を再び、そして明確に叩きつけられました。

 しかし、自分にとって最も転換となったのは、そんなレースを終えての次の日、風待ちの日でした。全日本スナイプという場では、その場にふさわしい様々な日本のトップセーラーがいらっしゃいました。多くの学生は、その様な選手の下に尋ね色々な事を質問していました。そんな学生を遠めに見つめながら、僕は他の学生の様に動くことが出来ませんでした。ただ自分のバースで悶々とそういった学生を見つめていました。何を聞けば良いのだろうか、同じことが頭の中でずっと巡っていました。目の前にトップセーラーがいながら、僕には質問することがなかったのです。おかしな話です、明らかに弱い自分が、トップセーラーに教えを請わないなんて。程度が低い、悶々とする僕は自分自身についてそう思いました。最上回生という立場には相応しくない能力であるにも関わらず、その弱さを是正することのない自分。否、どうして弱いかも分かっていないことが弱い、だからそれを正すことも出来ない自分。自分の程度の低さをあれやこれや考えていました。なんでもない風待ちの時間、誰に何を言われたわけでもなく、ただ座っていただけですが、自分がとても惨めに感じました。あの時間が僕の人生で最も辛かったです。

 弱いままではダメだ。2つの大会を経て編み出した考えでした。

 それからは知識を収集しつつ、考えてヨットに乗りました。当たり前のことかも知れませんが、僕はこの時から初めて意識的にそれを徹底しました。乗ってない時でも色々文献を読んだり、人に質問したり、整備をしたりして出来るだけヨットの能力をあげるように努力しました。全日本スナイプを終えてからスキッパーに転向したので、本当に簡単な内容から勉強し直しました。知識をつけたことで、何が正解で何が間違いか、ある程度判別がつくようになってきました。前は疑問が浮かんでも人に聞くだけで、分からないと解答されれば分からないとして放置しました。しかし、分からなければ調べました。徹底的に調べました。疑問は練習中に解決できるようになり、効率的に練習を行うことができました。考えてヨットに乗る事で、自分の成長を日々実感しました。毎度毎度の練習でちょっとずつ成長感じる日もあれば、急激に何かを掴んだ日もありました。何も得るものがない日は絶対作らないようにしていました。大会中ですら自分の成長を感じた場面もありました。去年の12月より中インまでの期間、僕の中で常にベターなパフォーマンスを出し続け、成長していました。本気でヨットと向き合っていた。そう自信をもって言えます。

 結論から言うと、その成長は中インに間に合いませんでした。コロナウイルスによる部活自粛、新歓、院試と様々な要因が重なり、自分に残された練習時間と成長率では中インのあの程度の成績で留まってしまいました。

 事実として、中インは負けてしまいました。しかし、また事実として去年12月より僕は僕なりに本気でヨットに乗っていました。「後悔しないように」去年ンメメァーさんが引退する際に言っていましたが、僕はあれ以上のパフォーマンスをあの期間では出すことが出来ませんでした。そう断言できます。だからこそ、僕は今、胸を張ってヨット部で紡いだ自身の軌跡について「後悔はない」、そう言い切れます。



 駄文にお付き合い頂きありがとうございました。これにて、僕の岡山大学ヨット部スナイプリーダーとしてのお勤め終了です。応援してくださった皆様ありがとうございました。

 ただ、ふんどしの引退ブログにあるように来年の全日本スナイプに出たいと思っているので、これからもOBとして部活に顔を出していきたいと思っています。なので、またこれからもよろしくお願いします。


(写真: 71代シングル大会にて、71代集合写真)


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71代≒曲者

71代主将を務めましたジュリコです。短いようで思い返せば長かったヨット部生活に幕を閉じました。中インが終わって、引退が決まり、全日のために貯めていたお金を何に使おうと考えていました。結論、圧力IHの5.5合炊飯器と2テラのSSDを購入しました。この二つで全部使ってしまったのですが何も後悔はないです。炊飯器に関しては今までク〇雑〇炊飯器を3年使っていたためご飯の艶も色も匂いも味もク〇雑〇でした。しか

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